江戸時代の禅僧に、「不生禅」を唱えた盤珪永琢禅師という方がいらっしゃいました。この方の教えは、「一切は親の産みつけ給うた『不生の仏心』で整う」というものです。「仏心」なら、なんだかわかる気もします。「仏の道にかなう心、命のありよう」といったところでしょうか。でも「不生」がよくわかりません。「不滅」とは違うのでしょうか?
「不滅」は「終ることがない、滅することがない」ということです。この場合、終わりはないけれども始まりはあるかもしれません。では「不生」はどうでしょう。「生まれない」わけですから当然始まりはありません。なおかつ始まりのないものに終わりがあるはずもありません。ちょっとまどろっこしいですが、「不滅」と言うより「不生」と言うほうがより正確で誤解がないのです。盤珪禅師自身もそのようなことをおっしゃっています。
「始めもなければ終わりもない、仏の道にかなう命のありよう」…これが不生の仏心なら、それは私たちが禅を通じて求めているものに叶います。臨済和尚が「一無位の真人」と呼んだあれです。それではそんな「不生の仏心」は、いつどこで手に入るのでしょう…東進ハイスクールの林先生に訊いてみましょうか?(霊峰)
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