〈一寸坐れば一寸の仏〉

 坐禅は仏になるための手段ではなく、坐っている姿が、仏であることの現われだと言います。今、ここで坐っている私たちがそのまま仏なのです。「一寸坐れば一寸の仏」の「一寸」は、「ちょっと」ではありません。線香「いっすん」分の長さのことです。たとえ5分でも、坐ることは何もしないことの何倍もの価値があります。

 禅の時間は、今・今・今・の積み重ねです。今この時、澄み切った水面のような坐禅ができていれば、それが「正念」であり、その積み重ねが「正念相続」なのです。長く坐れるから偉いわけではありません。

 少しの身じろぎも許されず、唾を飲み込む音さえとがめられる坐禅は、専門道場の雲水の方々にお任せして、居士禅にいそしむ私たちは、何よりも気軽に、心地よく、一心に坐りましょう。足が痛くなれば立ってかまいません。眠たくなれば警策を請うのに、何の遠慮もいりません。「坐禅は安楽の法門」なのですから。(霊峰)

 

 

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コメント: 1
  • #1

    sex telefon (金曜日, 03 11月 2017 18:07)

    zwarć